2014年6月22日日曜日

神を信じた…

職場の山肌に…
誰も気づいてくれないような場所にありました。

私達はどうしたら「義」とされるのでしょうか…

私は、今迄で生きて来た中で、様々な困難を通る度に、何度も「神様が解らない…信じられない」と涙し、どうしようもない怒りに襲われました。
でも…そんな不信仰な私でも…

ローマ4章3節
「それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義とみなされた」
アブラハムは人間の常識では信じられないような場合にも、なお神を信じたのです。

そう…
私達がどんなに神様を見失おうと、どのような状況の中であろうと、「イエス様の十字架の贖いの死が神に受け入れられた…私達の罪のあがないの為にイエス様は十字架上で死んでくださり、復活された」
この事を信じるだけで、私達は「義」と認められるんです。

「かれは望みえないときに望みを抱いて信じた。」ローマ4章

ふと…
今の教会に来た頃…
私がまだなんにも解らなかった頃…
「義」とはなんぞや…
と思い煩っていた頃…
「彼は望み得ない時に神を信じた…」と言う賛美の歌詞が飛び込んできて涙が止まらなかった事を思い出しました。

今思うと、その時に既に神様は語ってくださっていたんです。
そう…
「私を信じなさい…」と
「そこに答えはある」と…

神様は覆いを取り除き「目」が見えるようにしてくださいました。

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